かけ算の順序に対する学識者たちの声2

かけ算の順序に対する学識者達の声2

◆ 中央大学名誉教授で数学教育協議会委員長を務めた小林道正氏は,2012年に著書『数とは何か?』の中で,「かけ算の意味」(pp.41-46)および「かけ算の順序」(pp.46-47)という項目を設け,以下のようにパー書きの数がかけられる数・かける数に来る式を例示しながら,どちらも正しい式であるとし,教育環境の改善を呼びかけています.

    「どのお皿にもミカンが3個のっています。お皿は全部で4皿あります。みかんを集めて大きな袋に入れると、全部でいくつになるか?」という問題の答えを3個/皿×4皿=12個という順序で表さなくてはいけない、と思い込んでいる人が多い。
    4×3=12 だから、12個 とか、4皿×3個/皿=12個 と書くと間違っていると思う人がいるというのだから困ったものである。
    
    1皿当たり3個のミカンがのっていて、そのような皿が4皿あるのだから、4皿×3個/皿=12個と考えるのは自然な発想なのである。この自然な、ある意味では合理的な思考を無理にやめさせようという考えは無理が生じるのである。
    
    「かけ算の順序」について、「(1当たり量)×(いくつ分)」にしなければならないかを、子どもたちにいかに教えたかという小学校教師の奮闘記が新聞で紹介されたことがあるが、そんな先生の苦労を解放してやらなければならない。「意味のないこと」「無駄なこと」「間違ったこと」を一生懸命教える先生がいなくなることを願うばかりである。※生徒は数学者ではありません。生徒に分かりやすい楽しい算数にしていきたい。

 

◆ そもそも、教科書でかけ算の順序を定めるのは、「教育用に考えられた教室の共通言語のようなルール。本来の数学的な正否とは別物」と、中村光一東京学芸大教授(数学教育)は解説します。

  順番があれば、式を書いた子が「何」を「何倍」しようとしたのかが一目瞭然で、教室の共通理解が進みやすい。後に小数のかけ算を学ぶときも、後ろの数字が「何倍」かを表す感覚でいれば、そこに小数を入れることで「小数倍する」という新概念に気付きやすいなど、後々の発展学習の指導にも役立つ。こうした理解促進のために「順序」が考えられたと、中村さんは指摘します。

 「順序は教育上有効な仕掛けですが、算数や数学は本来、どんな発想でも論理が正しければ正解という自由な教科。式の順序が逆の式を『教科書と違う』だけで不正解にするべきではありません。多忙な現場では困難でしょうが、児童と語り、理解度を確かめながら行う教育が望ましいです」

 

◆ 教科書と違う計算はバツ、漢字などの先取り学習はダメ――。児童が学ぶ内容やその進度を学習指導要領や教科書の範囲に縛るような指導について、油布佐和子・早稲田大教授(教育社会学)は「柔軟性と批判性に欠けるマニュアル的な指導ですね」と指摘します。

    児童の状況に合わせて指導する柔軟性や自らの指導を常に省みる批判性は、教師に必要な資質です。「指導教科の一つでも学問として深めた経験があれば、批判性は身につきます。でも、ほぼ全教科を1人で担う小学校教師は大変で、学びは広く浅くになりがち。かつてのように、教師が教えながら、得意教科の研究ができる時間を、行政は確保すべきです

 

◆ 「学問」は児童にも大切です。石井英真(てるまさ)・京都大准教授(学習指導論)は「主体的に学び、深める楽しさ、いわば『学問の香り』を知ることは重要。昔、学校に数人はいたそんな香りのする先生が、活躍しづらい時代になりました」と語ります。

    OECD経済協力開発機構)の学習到達度調査(PISA)では2015年、日本の数学力は参加72カ国・地域中5位。石井さんによれば、こうした国際調査でも上位の学力を支える日本の教育の基礎は、戦後30年ほどで築かれました。まずは1958年、学習指導要領が教育内容の「基準」となり、バラバラだった学校教育を一律化。50~60年代は教師らによる教育研究も活発化し、かけ算の教え方も含め、様々な指導法が確立されました。
    
    基準化で教育は底上げされる一方、一部の単元には「歯止め規定」という教育内容の上限も設定。いわゆる落ちこぼれの児童を減らすためでしたが、児童が自主的に教科書を超えた学習をするのもダメとの誤解を生んだ可能性もあると、石井さんはみます。新たな指導法も教科書に入りましたが、教師の理解度が低いと、論理性のない形式的な内容の押しつけが起きかねないと考えます。
    
    「90年代以降、多忙化や保護者らからのクレームの増加で、やりがいを失った教師は形式的な指導に陥りやすい。子どもたちが生き生きと学べるために、保護者や地域は教師を孤立させず、よりよい教育を目指す仲間として向き合うべきでしょう」

 

◆ 数学は自由。取材中、東京学芸大の中村教授の口からその言葉が出た瞬間、何か懐かしい、スカッとした感覚が込み上げました。大学受験の頃、最も好きな教科は数学でした。理屈さえ通ればどう解いてもOK。模範解答にない解法を思いつき、正解までたどり着いた時の快感。「自由」の味わいだったのかな、と改めて思いました。

 たとえ答えが合っていても、式の順番が違うからダメ――。そんな指導をする先生方の事情もさまざまでしょう。忙しすぎたり、皆と違うことをよしとしなかったり。どこか不自由さを感じます。

 強いられて勉(つと)める「勉強」が楽しくないのは当然です。自由にワクワクすることが本来の「学び」では。子供たちに学びの喜びを。そして先生も自由に。そんな道を、多くの方と一緒に考えたいです。(長野剛)

 数学という学問は、人類の長い歴史とともに進化してきたもので、しっかりした体系が、しっかりとした根拠のもとに出来上がっています。算数は、勝手に個人の思いつきで作り上げていいみたいですね。

 

1つぶんの数を決めつけるのはよくない             遠山啓、量とは何か I, p116

 「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい」というかけ算の問題において、
みかんを配るのに,トランプを配るときのやり方で配ると,1回分が6こ,それを4回くばるのだから,それを思い浮かべる子どもは,むしろ,6×4=24 という方式をたてるほうが合理的だといえる。

 「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい」というかけ算の問題において、
「1つぶんの数」が1人に配る4こであるとは限らない。トランプ配りのように6人に1こずつみかんを配る場合、1巡で配る6こを「1つぶんの数」と考えてもおかしくない。それを 4巡するという式「6×4=24」は、1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数という数学的思考に基づいたかけ算になる。

 出題者が恣意的に想定する「1つぶんの数」は、むしろ正しい数学的思考に対する阻害要因ともなりうることから、解答の正不正に影響すべきではない。

 ※1つ分の数は、どちらでも良かったり、決まらなかったりする場合もあります。小学生に教えるときに、無駄なことは何も付け加えないで、純粋な計算のみにして欲しいです。大人の意見もなかなかまとまらないのに、子どもには、この方法以外ダメというのはちょっと無理があります。ポイントはかけ算すれば答えが出ると頭に浮かぶことではないでしょうか?足し算をするのか、かけ算をするのかを区別できることは意外に難しいものです。